2021-12-12 最後まで見られない映画、『悪童日記』読み終わり
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日本の若い監督の映画がこちらからも見られるようだったので話題の作品を見てみたが、ひとつも魅力を見いだせることなく半分が過ぎて、これ以上見るのが苦痛になってしまっていったん止めた。再開する気力が湧くかちょっとわからない。
半分見たけれど、登場人物は「いいお天気ですね」程度の会話しかせず、長回しの部分は絵的にも魅力がなく意味もわからない。最後まで見たら意味がわかるかもしれない、というたぐいの意味の分からなさではないような気がする。画面にも魅力がなく、ただただだらりと時間が過ぎてゆくのを見せられている。「そこになにかが映っているはず」という監督のひとりよがりを見せられているような気持ちになって、だんだん腹が立ってくる。
現代の日本の作品にありがちな倦怠感、社会のはざまでさまよう心、アイデンディディの掴めなさ…のようなものを表したいのかもしれないけれど、人物、絵、ストーリー、雰囲気、質感の全てに魅力がないというか何かを見出すことができなくてしんどい。
何の辛抱をしているのかだんだんわからなくなってくる。
登場人物はみんなおなじ感触。当たり障りのない他人の会話がときどきぽつぽつとかわされ、精気も魅力も面白みも人の厚みもない(おそらく積極的にそういう風に描いているんだと思うけれど)、映画を半分見ても、「いつはじまるんだろう?」と退屈といらいらしか感じない。
ついこの間も、評価を受けている若い作家の作品を見たが、どこかで見たことのある絵のつぎはぎに、芝居をやる気のない主役、顔は美しいかもしれないけれど魅力がどうにも引き出されない気の抜けた炭酸みたいなヒロイン、恥ずかしいセリフ、と最初の10分を見て我慢がならなくて見るのを止めてしまった。
最近こんなことばかり。
confinementに入ってからは特に、色んなものをネットで手軽に見られるようになって「見たいリスト」が膨れ上がっているけれどどうにもそれに手をつけることができない一因には、心底がっかりさせられる作品が溢れかえっていることにあるような気がする。
私だってものをつくる苦労は知っているから、ただなにもかもを斜めから見たり、あら捜しをするつもりはない。好きじゃないタイプの作品にも面白みを見出すことはできるし、質を評価することだってできる公平さも持ち合わせていると思う。
自分が多くのものを求めすぎることも知っているし、自分の視野はそんなに広くないし、知識だってあるわけじゃない、その世界の文脈を知らずに作品を理解できないことだってあるだろうことも自覚している。自分の感性が、新しいものを受け入れづらくなっていることも当然あるだろう。
そういうことを考慮しても、いくらなんでもこれは…という体験が多すぎるて、新しいものに手をつけることを躊躇してしまうのだ。見たいリストの中のものにチャレンジしたいけれど、どうせまたがっかりさせられるんじゃないか、貴重な時間を奪われるのではないか、という疑いが、からだを重くさせる。
18:15
読み始めてから、何度も挫折しながらやっと読めたので嬉しく、その勢いで続編を読み進めている。
ごく薄い本や絵本を除いてははじめて一冊を読み通せた。普通はもっと早くこの経験をするはずなのに…と恥じるような気持ちがなくはないが、そういうことを言っていても仕方がないし、たぶん今だからこそ実感できた効果もあるな、ということで自分を慰めている。…というのは嘘で、そのものをそのまま受け止めることにする。
読み始めた頃は1ページ読むのにかなり時間がかかったし、全部の単語を調べないでも良いとはいえやっぱり内容の把握に響くので辞書を片手に読んでいたのだが、だんだん調べないでも良いようになってきた。どうしても気になる名詞は調べるけれど、動詞はどういうことを指しているのか予想できるようになってきたし、まったくわからなくても文脈のなかで埋もれさせても構わないかどうかの判断ができるようになったから。
子供の頃、日本語の本を読むときにもこういう過程を経て本の読み方を手に入れたんだろうな、とときどき考えながら読んでいた。
子供の頃に戻ることはできないけれど、こうして外国語を習得することを通じて、言葉の取得の過程を再体験できることは大きな収穫だな…